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どうする、意見広告 [ことばの元気学]

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(1967年3月3日、開高健さんや小田実さんらのべ平連が、ワシントンポストに出したベトナム戦争反対の意見広告。65年11月にニューヨークタイムスに出した同じ趣旨の広告の第2弾。題字は岡本太郎さん)

面倒でも、まず、1961年にニューヨークタイムスが出した次の宣言を読んでください。

ニューヨークタイムズは、合衆国憲法修正第一条の目標を促進するために、われわれの広告欄をあらゆる意見のために開放しておかなければならない。
中傷文書に関する法律に反しないか、礼儀や良識の限界を超えていないか、事実は正確か、といったことが問題になるのはもちろんだが、新聞の自由の原則は、われわれが容認できないような事件も報道することが必要なように、われわれが大きな抵抗を感じる本や、嫌悪を感じざるを得ない政党や政治活動の広告をも受け入れる義務をわれわれに課している。
憲法が保証しているのは、発行者の発行する権利だけではない。大衆の知る権利の保証であることがより重要なことである。これこそ、自由な報道の真の意味だとわれわれは考える。それは、思想の領域における開かれたコミュニケーションの維持にほかならない。
(ニューヨークタイムス1961年12月28日付社説「広告の自由」より)

「広告の自由」と題したこの社告が出るまでは、意見広告というのを新聞はほとんど掲載しませんでした。とくにその新聞社が嫌うものや、その新聞社を批判するようなものは、掲載を拒否するのが普通だったのです。
が、それはやっぱり間違っている、憲法の趣旨に反するということで、ニューヨークタイムスは原則として広告欄はすべての人に開放された「言論の広場」だと宣言したんですね。

これが引き金になったのか、日本の主な新聞も1968年頃から意見広告への制限をゆるめるようになりました。
それまでは、特定の政党の意見広告はもちろん、「くたばれ朝日新聞」なんていうタイトルの本の広告が、朝日新聞にのることはなかったのです。つまり、その広告をのせるかのせないかは、その新聞社の裁量次第だったんですね。

それはおかしい、広告欄は新聞社の私物ではなく、公共の広場だ、というニューヨークタイムスの宣言は正しいと、当時ぼくは思いましたし、いまもそう思っています。
が、実際に意見広告が自由化されると、前回に紹介した自民党対共産党のようなトラブルがすぐに発生する。なにかというと裁判沙汰になる。
で、反論権の問題なども結局はあいまいになったまま、いまは意見広告で目立つものといえば、憲法記念日や終戦記念日に市民団体が出す護憲広告や反戦広告くらいになってしまっています。

が、厳密にいうと、ACがおこなっている公共広告にも意見広告が含まれているし、選挙のときにやたらに出てくる政党の広告も意見広告です。
あるいは、企業が出す企業広告にも、意見広告といえるものがたくさんあるんですね。
さらにこれからは、原発の存否をめぐって、さまざまな広告が出てくる可能性もあります。
その昔、政府や電事連の原発安全広告に、結局は負けてしまった自分自身の反省からも、これからはしっかり目をあけて、意見広告の問題を見ていきたい。
とりわけ、意見広告の自由と公正という面を、見ていきたいと思っているところです。

長くなるのでもうやめますが、
最後にもうひとつ、去年の9月2日、日本の朝日・毎日・読売や、アメリカのニューヨークタイムスやワシントンポストなど、日米の8紙にいっせいにのった宝島社の意見広告をご紹介しておきます。「日本の犬とアメリカの犬は会話できるのか」。政治経済面での日米摩擦を問題を、コミュニケーションの問題としてアピールした広告です。

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